その場所は案内出来るからと言われたので、地図を見ながら話をすると戦死した場所で
はないかと確信するようになって来た。フォートホワイトやケネディー山の手前にあるから問題ないと言われ、是非その場所に連れて行ってくれと頼みその日はそれで別れたが、なんと言うめぐり合わせなのか、きっと兄が逢わせてくれたのだろうと思わずにいられなかった。デコボコ道を走る事約一時間、最初の休憩する場所に到着した。 遠く山並みが見えとても景色の良い場所である。
途中クラクションの鳴りっぱなしと砂ぼこりと揺れに少々参っていたが、最初の休憩で埃を払い下車して道端で小用を済ませ、4〜5軒ある民家を覗いてみたが不思議そうな顔で此方を見るだけであった。
運転手が二言三言話をしていたが道路上には黒っぽいヤギと子豚、鶏が放し飼いにされていたが、
いずれ食用にされるとの事であろう。
休憩後すぐに目的地に向かったが、だんだん道がひどくなって来たが、ガイドを通じて運転手が話をしてもクラクションとジープのきしむ音でよく聞き取れないが、
この道は旧日本軍が通った道と処どころで交差をしているとの事で、狭い急斜面の小さな道が道端に時々見える、こんな細い道を歩いて登ったのかと驚かずにはいられないが、召集された軍人はほとんど若い人達でありこんな急斜面も登坂可能であったのか、
今の私には10分も歩けないと思うばかりであった。新しい道路は戦後1966年に当時のビルマ政府がチン州のインドに通じる幹線道路として山を切り開き作ったそうである。それによってインドからの物資が届き、チン州の高地に数多く散在する
小さな集落にも物資が届くようになり、チン人も数多く住み着くようになったそうである。
休憩後1時間程走った頃に運転手がそろそろテイザンストッケーですよと言われたと同時くらい に、身体全体にゾクゾクする感じと鳥肌が立つ
のを覚えた。こんな経験はあまり無いよと友人に話したら、多分この付近で戦死したから自然と身体が感じるのではないのと言った。確かに自分でもそう感じたし周りの景色も羊歯や蔦、木が、吉岡隊長が戦死時の状況を書いて送ってくれた書状と似た景色が目に入って来た。
そこから5分程走った所で急に台地の様な少し開けた場所に到着した。より鳥肌が逆立つ、道の両側には少々奥まった場所に古ぼけた高床式の家が8軒位建っていたが、草むらの中や5m位の木の中に柵を設けて家が建っているが、どこが境界なのか分からないので8軒位としか言いようがない。
4人ともにジープを降り道路脇の一軒の家の前に案内され、そこに書かれた大きな看板を指差され、ここにテイザンストッケー3900フィートとミャンマー語で書かれていると説明を受けるが、全く読む事が出来ない。発音を確認するがペイザンとも聞ける、因みにテイヤン、パイヤンとは第3という意味だそうだ。
そこから東の方向30mの所に旧日本軍の道路があると言うので行ってみたが、確かに1.5m幅の道が下の方に続いていたので、少し下ってみたが十分人が通った痕跡が残っている。
この道を第33師団工兵隊が開いたか英印部隊が開拓したかは不明だが後のウ号作戦、即ち
インパール作戦の際には軍隊23,000人の弓部隊がもっと奥地のフォートホワイト、
ケネディー山、インパールと小さな戦車43両、共々行軍したのであろう事は想像がつきます。1943年の3月乾季の頃、英軍チンデット挺身隊と呼ばれる精鋭部隊が、チン州からアラカン山脈を越えて攻撃をしてくる事は当時としては不可能であると師団上層部は考え、カレワ(カレーの40キロ東)という町に兵站を構え中央及び南西部を広く占領していた、
しかし英軍飛行機による空挺隊
4,600人のうち小隊に別れた部隊が落下傘降下して日本軍のスキのある内陸部に攻撃を仕掛けて来た。
それを重要視した軍部はこのチンデット部隊を追いかけ二十一号作戦を遂行することになった。兄、一之進はこの際の英軍を追いかけながらチンの山中に少数部隊の一員として戦闘に関わり、ビルマ内では戦闘初期の頃に若い命を国のために捧げてしまった。しかし弓部隊はその後チンデット部隊の半数以上を捕虜とし壊滅状態に陥れたことは事実で戦史に綴られている。話は戻るが進行方向右側の小道から引き返し今登ろう
としている
新道を横切り小道は左の山頂方面に続いているのが写真にもはっきりと写っている。暫くその辺を散策したが書状にあった羊歯、蔦
その他の条件を当てはめてみると戦死地に間違いがないと確信をした。そこの近くで慰霊をする場所を探す事にすると、運転手が左手の山を軽く一回りすると少し開けた場所があると案内をしてもらいそこに行くことにした。
なるほど景色も良く先ほ
どあった小道がこの場所まで続いて登って来ている、よしここを慰霊をする場所に決めようと思った、そういえば書状に第三ストッケード付近の戦闘と書いてあった事を思い出す、もしかしたらこの場所が戦死地かも知れない。100%の特定は今となっては無理な事ですが、
この付近である事は間違いないと思い込みリュックの中から伯父やん、伯母やん以下、 親、兄弟、姉妹の
名前を書いた紙を下に敷いて姉2人から預かった、 一っちゃんが好きだったと言うお米と線香をその上に乗せ、実家から預かったローソクと今朝買った菊の花、家から持ってきたチョコレート、飴、埼玉で見つけた栃木田村町のお酒を供え簡単ではあるが慰霊を始めました。
同時に胸にこみ上げる何かが身体中を駆け巡り、涙がどっと溢れ出て頬、鼻、口と伝わり嗚咽が止まらなくなり、まるで子供が泣きじゃくりシャックリをしている状態が続いてしまった。
少し気を取り直し今まで来るのが遅くなった事を詫び、母ぁやんの事、父ちゃんや兄弟、姉妹の事全部声を出し詫びて、今一番下の顔も合わせた事もない保夫が迎えに来たよと報告したが、やはり肉親の情というのか実際の顔は見た事がなくても心が通う気がした、お疲れ様、ご苦労様と声を上げて言うと又涙が出て来てしま
う。
小さい時おっ母やんを助け妹、弟を助け働き大人になったら徴兵に駆り出され、遠いこの地で英霊となられ祖国の皆んなの事を案じ、上海
では国から慰問袋が届いたといってははしゃぎ、手紙が届いたと喜びビルマに上陸した日から約10ヶ月短かった命、(ラングーン到着昭和17年7月)さあ〜帰えろう日本へ!
生きていれば88歳、1人で帰るのは無理があろう!
周囲に友人、ガイド、運転手がいるのも忘れてローソクに火を灯し、持参したものを焼きお神酒を注ぎ、一連の簡単ではあるが慰霊を行い英霊を背中に背
負い終了した。友人達もお参りをしてくれたり写真を撮ってくれたりと何かと手助けをしてくれたが、放心状態の私を見てか何も話を、せずに後片付けをして黙って車に乗り込んで次の目的地に向かった。
程なくタインギン村に到着し運転士の親戚の茶店で少し早いが昼食にする事にして先ほどのお神酒を周囲の人に日本スタイルだから飲めと勧めたがほんの舐めた程度しか口にしなかった、遠い日本のお酒など口にした事がないのだから無理もないと思い軽く進めただけでした。
昼食は無難なチャーハンに目玉焼きを乗せたものを注文したが、朝早くからジープに揺られたせいなのかお腹が
空いて意外と美味しかった。慰霊地からこの村まで30分位で途中トーチカを作れる様な平坦な場所は見られなかったし、がけ崩れの跡も見えこの辺は意外ともろい地質だと思った。
また蔦や羊歯の木は無くなり潅木や草地が多く、それが崖崩れの原因かも知れないと思い、やはり先ほどの場所が戦死した場所であろうと尚、
確信したのであった。この村は標高6,250フィート(約1,800m)であるとガイドが言ったが、これより上は低潅木と草地が多く、所々に大木が焼けて残っていると話して焼畑農の面影が残っているそうである。これからフォートホワイト、ケネディ山、に向かうが行ける所まで行こうと話し合う。ケネディ山を回り込むとテーデムの中央集落が遠くに見える、
しかしそこまではデコボコ道を約30分走らなければならないし、入村は出来ないとの事と、帰りの時間との関係でこの地で引き返す事にした。
「 弊社(PLG)手配の毛塚保夫様
慰霊の手記より抜粋 」
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